この夜が終わる前に

そろそろ分岐地点の人。いろいろあぶない

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倫理学 再レポ

Ⅰ生殖の操作をめぐって
 子どもを望みながら2年経っても妊娠しなければ、不妊症と診断される。望みながら子どものできない夫婦が10組に1組の割合で発生し、不妊症に悩む夫婦の数は意外と多い。更に、晩婚化の傾向、性感染症の増加、環境ホルモンによる生死の減少など、不妊症の原因はむしろ増えつつある。生殖に関する自己決定権は、避妊や妊娠中絶だけではなく、夫婦が不妊治療を受けることにも認められてしかるべきである。
 不妊治療は人工授精と体外受精という生殖補助技術に大別される。人工授精は採取した精液を人工的に至急に注入する生殖補助技術であり現在も日常的な不妊治療に使われている。人工授精は夫婦間で行われる配偶者間人工授精と夫以外の精液を使う非配偶者間人工授精に分かれる。後者の場合には子どもが父親とは異なる精子提供者の遺伝子を受け継ぐという点で倫理上の問題が生じる。その1つは子どもが自分の出生事実を知ってドナーである父親探しを希望する場合である。ドナーの情報が保管されていなければ子供が自分の遺伝上の父親を探し出すことは不可能である。またドナーの匿名性に対して、子どもの出自を知る権利を保管するためにドナーの情報を保管するべきかどうかと言う問題が生じる。もう一つの問題は欧米で既に行われているように精子バンクの存在である。精子の様々なデータが登録され売買されているのである。アメリカでは人気の高い同じドナーの精液が繰り返し売られたり、ノーベル賞受賞者の精液が高額で売買されている。シングルマザーとして子どもを望む女性は生身の男性ではなく、遺伝子に恋するかのように精子を選択するのだ。こういった精液の自由売買は、父親の存在価値をますます軽いものにするとともに、より優秀な子どもの質を選ぼうとする欲望を母親の中に駆り立てる。この欲望は機体から外れた子どもに対する失望や虐待を引き起こしかねない。
 もう一つの生殖補助技術である体外受精は、排卵はあるものの卵管閉鎖などで妊娠に至らない場合や、精子の活動力が弱くて顕微授精を利用する場合など、卵子を体外に採り出して受精させ再び子宮に移植する技術である。体外受精はその技術の特徴からして、人工授精と比べて遺伝子の選択が妻意外にも拡張することになる。つまり精子の提供だけではなく別の女性から卵子の提供を受けることが可能になるのだ。組み合わせが自由になる結果として、遺伝子の選別と言う意識傾向が強まることにもなる。アメリカではこれによってより良い子どもを持ちたいというパーフェクト・ベビー・症候群と言う社会病理も生じている。
 体外受精では複数の受精卵を作るが使用する必要がなくなった受精卵(余剰胚)は、現在では明確な規定が存在しない。一定数まで卵分裂した受精卵は、子宮に着色すればヒトになる可能性を持った生命の萌芽という意味でヒト胚と呼ばれている。ヒト胚の内部から採取されたES細胞がヒト胚性肝細胞として固体のあらゆる組織・器官へと分化する全能性を持つことが発見され、白血病の治療やパーキンソン病の治療に使えると考えられている。
 先端的な生殖技術は不妊治療の枠を超えてクローン技術としても応用され始めている。クローン技術は受精卵を人工的に分割して同じ遺伝子を持つ複数の固体を作る方法と、体細胞クローンを作る方法に分けられる。
 体細胞クローン技術は、核を除去した未受精卵に任意固体の体細胞の核を移植して卵分割させ、組織や固体の複製を作ることである。これによって1996年にイギリスのロスリン研究所でクローン羊ドリーが有名である。その他にも絶滅したマンモスを復活させようという計画や死んだペットのクローン作りが実際に行われ始めている。クローン技術はもちろん人間への応用も可能とされている、しかしクローン人間をつくることは許されるのかという生命倫理に関わる問題が生じる。クローン人間を作ることは個人の権利として倫理的に認められるであろうか。既に羊や牛、猿でもクローンが生まれているのだから人間だけ例外にする必要がないという意見もあるが、子どもが欲しいからといってクローン人間つくりに直結するのはやはり短絡的である。
 クローン人間作りが個人の権利に属するという主張は、クローン人間の人権を侵害しかねないパラドクスを含んでいる。疾患にかかった部分にクローン人間から摘出した臓器を移植するといったことも考えられる。こういった考えはクローン人間の人格を否定する自己的な発想である。自分の体細胞を使ったクローン臓器の作成は、脳死者からの臓器移植に代わる方法として検討の余地があるとしても、クローン胚からES細胞を取り出すことは生命の萌芽を破壊することになり、生命の尊厳という立場から生命倫理上の問題が提起されている。


見解
 子どもが純粋に欲しいと思う体外・人工授精は大いに賛成である。不妊にある夫婦の自分の血縁である子どもが欲しいという気持ちを大きく理解しているからだ。しかしパーフェクト・ベビー症候群などのより良い子どもを作るための体外・人口受精は人のエゴや自分の倫理観から大きく外れており同意しかねる行動だ。この子がダメだったら次に作ればいいという生命をモノとして考える可能性もあり非常に危険でもある。
 クローン技術は人が踏み出してはならない最大の暴挙ではないかと自分は考える。絶滅の危機にある動物や絶滅してしまった動物を「複製」することは過ちであり、それ以前に絶滅に追いやった人間自身が別の道で保護することが道理ではないのか。ペットのクローンもそれはあくまでも類似したレプリカであり、そこにある生命は遺伝子上同じものだとして全く別の生き物でないかと考える。生物は必ず死があるからこそ一緒にいる時間を大切に過ごすのではないか。クローンで再生させるのは死生観を大きく歪め、喪う悲しみを奪い取ってしまう。今の子どもがゲームと一緒で簡単に全てをリセットできると考えそれが悪いことではないと肯定してしまうことと同じではないのか。だが、臓器などの部分的クローンはとても難しい位置にある。臓器だけなら、そこに生命はあるが意思がない。今まで臓器移植を待って亡くなった人を救うことが可能になり、それを望む人も多いであろう。自分としても矛盾しているとわかっているが部分的クローンは賛成の意見である。


Ⅱ死の操作をめぐって
 人の死は従来、医学的に三微候説に基づいて判断され、それが市民感覚にも広く浸透してきた。すなわちそれは①心臓停止②自発呼吸停止③瞳孔散大をもって人の死とするものである。しかしそれとは根本的に異なった脳死という考え方が出てきた。かつては脳死になればそのまま心臓停止につながっていたのが人工呼吸器によって酸素が供給されれば一定期間は心臓の活動が継続する状態が生じ、三微候から外れることになる。こうした脳死者は低い確率ではあるが発生するのだ。交通事故による脳挫傷や脳内出血、そして脳梗塞など意外と身近なところにその原因がある。
 脳死の判定基準には、臓器移植法に基づく厚生省令で竹内基準が一般には採用されている。
①平坦脳波②動向散大③自発呼吸停止④脳幹反射の消息⑤深昏睡の5つを判定基準として1回目の判定から6時間の経過を持って脳死と判定するものである。脳死は人の死と言えるかどうか。これはそう簡単に結論を出せる問題ではない。いわゆる脳死臨調が激しい議論の末に統一見解を出すことができず、脳死を人の死とする多数意見に併せて、人の死ではないとする少数意見を併記するという異例の最終答申を出したことからもこの問題の難しさが分かる。
 脳死を人の死とする考え方は人の生を、脳を中心とした神経家によって身体の各臓器・器官が有機的にとうどうされている状態と理解する。従って脳死は見なされないとされる。これに対して脳死を人の死としない考え方は、脳だけを人間の有機的統合の中心とする考えを避難して心臓もまた人の生に不可欠だとする。人工呼吸器をつけているとはいえ、呼吸もあり体も温かく、そして妊婦が出産した例もある脳死状態は、まだ人の死とは言えないとするのだ。脳死を人の死と認めてしまうと脳死者は人格のない死体になってしまい、その結果脳死者は人権も含めて社会的な権利を全て失うことになる。心臓がまだ動いている状態では生命活動の停止という意味での死と言うわけにはいかない。例え臨床的に脳死と判定されても心臓の動いている身体を死と判定するには、とりわけ家族にとっては抵抗がある。脳波は消失していても生命活動は継続しているわけで、生物学的に見ても人の死とすることには問題が残る。人間を脳中心にではなく、身体全体としての観点から理解することも必要なのだ。
 近代以降、人間を脳中心に理解することが習慣づいてきた。そのような理解は、人間の本質を理性と言う意識の働きに見ようとする近代的な発想に基づいている。しかし視点を変えて人間を身体全体として見ると自我よりも包括的な自己という概念で人間を捉えることができる。個人の自己同一性というときその自己は、意識はもとより身体全体も意味しているはずなのだ。
 脳死が今日これほどまでに注目されるようになった背景には、人工呼吸器の普及による脳死者の増加と移植医療からの要請がある。移植臓器によってしか延命できない患者に脳死者の臓器を摘出して移植すること、これが臓器移植の趣旨である。臓器移植法によって従来の三微候による心臓死と脳死の2つが死の概念として並び立つことになった。条文によると移植に必要な臓器をしたいから摘出するために死亡した者が生存中に臓器の提供する意思を書面により表示し、なおかる遺族が摘出を拒まないときに医師は移植にしようされる臓器を死体から摘出できるとなっている。本人の意思表示を明記した背景には脳死臨調の答申や国民世論の動向がある。
 臓器移植法が成立してから8年が経過したところで臓器提供者の数は36件とまだ少ない。これは脳死と臓器移植についての複雑な国民意識があると言わざるを得ない。臓器移植についての国民的合意がまだ形成されていない現状では、脳死を人の死とするかどうかについて、本人の意思が重要になる。そのため臓器移植法では脳死判定と臓器摘出について本人の意思表示が条件としてつけられた。これは死の自己決定をする時代になってきたのではないか。しかし現在進められている臓器移植法の改定作業は逸脱した方向に進んでいる。その改定案とは脳死は一般的に人の死とした上で、年齢に関わらず本人が生前に提供拒否を意思表示していなければ家族が書面で提供に同意するだけで臓器を摘出できるとしている。アメリカでは既に臓器摘出は家族の承諾だけで足りる制度になっており数多くの臓器移植がなされてきたが、最近になってドナーの数が減ってきてたり、承諾した家族がその洗濯について後になってから後悔し精神的なケアを必要とするケースも生じている。やはり脳死者本人の提供意思が事前に表示されていることこそが家族の代理意思よしも優先されるべきだろう。
 臓器移植法に基づいて脳死者は、判定が下された時点で人格のない死体となる。こうして脳死者は人間としての法的な権利や社会的地位も喪失することになる。そうなると脳死判定を下された女性が暴行された場合、既に彼女は支社であるため犯人は暴行罪ではなく器物破損罪にしか適用されない。またフランスで脳死者に毒ガスの吸引実験が行われたり、脳死者を血液製造資源として利用する死体のリサイクルを計画されていた。


見解
脳が死んでしまったら意思が消失してしまい、また動くこともできなくなってしまう。もう「それ」はただの同じ形をした物質でしかないと思っていた。また人工呼吸器など人間が作った延命装置の力を使わないと生きていけなくなり、倫理的に考えるとそれは生きているのではなく生かされているのではないかと考えていた。だが1979年のDuerの報告以来、1985年までに188例の死後出産成功例がある事を知り、断言する事はできなくなってしまった。しかし出産された赤子のほとんどは何かしらの障害を持っており短くして命を落とす事が多い。出産された赤子が全て短く命を落としているなら生まれるだけ残酷かと思うが、ごく稀に健康体の赤子もおり現在も元気に過ごしている例もある。脳死や心臓死と判断された人間も死人ではなく新たな生命を作ることができるのだ。新たな生命を作れる存在に死を言うレッテルを貼ってよいものなのだろうか。自分は深く悩んだ。意思はなくとも、動くことができなくなっても生命の輪を廻すことができるのならそれは生きていると言う事ではないのだろうか。少なからず自分以外の判断で自分の死を委ねる事は、自分の思う最後の死とズレが起きてしまう可能性があるので何かしらの形で自分の意思を提示できるものが欲しいと思った。
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んーんーあー

ワンフェスお疲れ様!!!
正直どこまで書いて良いかがわっかんない!!!!

なんか黒い感情があるとかないとか!!!そんな感じ!!!!
とりあえず、みなもたんはベンツで夏行くならアリスで攻めたほうがまだいいと思うお!!!
ディスプレイとかPCに座る幼女とかカワイイんじゃないの?!わっかんないけどさ!!!!
なんといってもパーツの少なさ・塗装の簡単ぐあいはガチだと思うよ!!!!!

無駄にナナフがプーカを作ればいいと思うよ!!!!!!!色を変えるだけでキャラ名が変わる!!ふっしぎー!!!!


個人的にはオデットかエルファリアがいいな!!!おっぱいおっぱい!!




・・・こんなもんでええでしょうか?w
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